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再会−EF65541
20系寝台客車に採用されたAREBブレーキの為の圧搾空気を送れるロクゴ(EF65)、それがEF65500番台−通称「ロクゴのP型」でした(65の500番台にはスーパー500番台F型も含まれますが…)。東京発の20系寝台特急客車を牽引した直流機は、カニ22制御対応のブルトレ色のEF58にはじまり、僅かな期間のEF60500、そして真打のEF65500へと変遷していきました。EF60500とともに、20系客車の塗装に合わせかつヘッドマークの取り付けを前提としたその塗り分けは「特急色」とよばれ、色こそ一般直流機と同じ青15号とクリーム1号を使っているにも関わらずまったく印象の異なるスタイリッシュな塗り分けでした。

EF65500は国鉄合理化の波にもまれ他線区の寝台特急牽引機からヘッドマークが廃止されていく中、頑なにヘッドマークを掲げ続けやがて来る全機へのヘッドマーク復活までの長い長い間、その伝統を守り通すことに多大な貢献をした機関車ともいえます。これは、東京発の寝台特急が当時の国鉄看板列車であったこととともに、EF65500番台に施された特急色がヘッドマーク前提の塗り分けということがあったためと信じるところです。EF65500は昭和53年から、その栄光の東京発寝台特急牽引機の座を東海道山陽スジ用に増備された貫通扉を備え飾り帯も無くしたビジネスライクなEF651000(PF)に譲ることになります。(塗り分けこそ特急色ですが…)

さて昭和50年代はじめ、小学生の間でブルートレインブームが花開こうかという時期、昭和50年3月には、昭和47年に14系化された「さくら」「みずほ」に遅れること2年余り、「はやぶさ」「富士」「出雲」がそれまでの20系に替わり24系24型に衣替えしました。そして昭和51年10月「ゆうづる」の24系24型化に際し車輛を提供し自らはその後延々と続くことになった24系25型になるまでの僅か1年半の間が、東京発寝台特急「はやぶさ」「富士」「出雲」にとっての短い24系24型時代でした。

昭和51年夏、親にせがんで「寝台特急の旅」に連れていってもらったのが結果的にこの僅かな時期に重なったことになりました。その旅の最後にして最大のクライマックスは、門司−横浜間を当時もっともお気に入りの列車、寝台特急「はやぶさ」に乗車することでした。さて門司駅で待っていると「はやぶさ」は、自分にとってはじめて目にする赤い電気機関車、交流機ED76に西鹿児島から牽引されてきました。ここ門司で関門トンネル用の交直流機にバトンタッチです。その日の「はやぶさ」牽引は?普通はEF30だけど…わぁ(当時の)新鋭機EF81300番台、EF81301です!輝くステンレスの車体を纏った機関車はED76に替わり門司下関の僅かな間の任務につきます。機関車付け替えの一部始終を見た後、そのままオハネフの端にかじりつきトンネルの間中「EF81301」の文字と対峙してました。そして、下関到着。

寝台特急がまだ輝いていたころ。ピカピカの新型寝台列車を東海道山陽線で牽引するのは、栄光の寝台特急の牽引にあたり10年が経過し風格も十分兼ね備えた頃のEF65500番台でした。これから1100kmに及ぶ長旅でお世話になるのは…?EF81301が客車から切り離されゆっくり離れていきます。そして接近してくるブルーの車体は…?「今日は何号機だ?…EF65541…541だ!41号機目があるんだ!(当時、小学生の身で雑誌や本で確認できていた最後のナンバーは交友社の写真集「特急列車」で「みずほ」を牽く540でした。実際のラスナンバーが542であること、540番台を含め最後の数両は一般型からの改造機であることなど小学生の自分には知る由もありませんでした・…)」ゆっくり接近、直前で一旦停止。そこから微速で近づき「ガチャン」重い独特の金属音とともに機関車の自連と客車の密着自連が手を結ぶ…手際良くブレーキホースが連結される(24系はAREBじゃないですけどね)。そしてEF65541の甲高いホイッスル音がまだ日も高い夏の西日本の夕刻の空を劈きゆっくりと発車。

ものの本に「夜汽車の汽笛は電機に限る」と書いてありました。蒸機のそれは力強すぎて郷愁がないと…その点65Pの甲高いホイッスルは夜行列車にうってつけでした。当時、駅発車・トンネル通過・鉄橋通過時に鳴っていました。「ピィー」と切なげに咽ぶその音は70cmの中段寝台に潜り込み眠れぬ夜を過ごす小学生の耳に響き、寝台に居ながらにして牽引機の存在を実感させました。通過駅ではおそらく、ダ・ダ・ダ・ダ・ダ・ダという541の重厚な通過音に続き、対称的なタタン・タタンという24系客車の軽快なジョイント音そして、上り特急の最後を締めくくる電源車カニ24のディーゼルエンジンの轟音とともに赤いテールランプと「はやぶさ」のバックサインを残して闇に消えていく…という情景が繰り広げられていることが想像できました。一瞬のうちに通りすぎる踏み切りの警報機の音、軽快なジョイン通過音そして時折響く541のホイッスルの音に寝台車に乗っているという至福の時を感じながらやがて眠りについていきました…。

それから26年。鉄からも距離を置いて十数年、元鉄とは勘付かれぬよう平穏無事な生活を送っていたある日155乗りのY氏から電話が…。

Y氏「もしもし。ひょっとして541をお探しではないですか?」
私「は?」
Y氏「とぼけても駄目ですよ。Pです。Pの541です。知らぬとは言わせませんよ。」
私「な、何のことでしょうか?私にはさっぱり」
Y氏「ふふ。まぁいい。その541なんですがね。まだ生きてますよ。しかも国鉄特急色のまま。」
「え?え?ほ、ほんとうですか!?ちょ、ちょっと詳細を…」
Y氏「12月14日、一緒に高崎に行きましょう。全てはそこでわかるはずです。では。」
ガチャ…ツー・ツー
注:一部脚色あり(というかほとんど脚色)
あの541が廃車にならず生き延びてる。しかも無粋なJR貨物色にならず、国鉄特急色のまま。見たい、いや、あの日、1100kmをともにした自分としては見に行かねばなるまい。

と、いうことで行ってきました。高崎機関区の一般公開。



この手の施設に足を踏み入れるのは、飯田線の伊那松島以来19年振りです。

誘ってくださったよしこうさんが155で家に来てくれて(しかし人様早朝からよく呼びつけるヤツだ<自分)、よしこうさんのLtdはうちの155の駐車場でお留守番。で、うちの155に二人で乗りこみいざ高崎へ。三京、環八、関越と経由しあっという間(実所用時間は2時間半だが)につきました。

さて機材を持っていざ構内へ。ムービーとズーム付きAFカメラというスマートな装備のよしこうさんに対し「いやあ、もう現役ではないんで…」という自分の方が何故こんなに機材が多い?微動だにしない機関車を撮るのに何故秒間5コマのモードラが必要?しかも、高々秒間5コマに対し何故こんなに重くて大きい?高々200mmのしかもただのF4のズームが何故こんなに重くて長い?…とまあ数々の疑問はありますが、良しとしましょう。不定期復活とはいえ鉄は基本的にゴハチや飯田線も撮ってきたMFのキ○ノンでいくと改めてここで宣言!

基本的に電気機関車のみの展示で、メインは4輌揃った65Pという考えようによってはなんとも一般受けしない内容です。しかし、65Pがこんなに揃うのはこれが最後という話もあり鉄的にはまたとない内容でした。なんでも42輌あったEF65500番台は今となっては、今回展示された501、535、539、541の4輌だけだそうです。その中に思い出の541が含まれていたのは奇跡とも言えるでしょう。開催が行われた高崎機関区はJR貨物の施設で主催もJR貨物によるものだったようですが、今回のイベントに備え501号機をJR東日本から借り受けてきたようです。(他の3輌のPはJR貨物の所有)

65Pにとって東海道山陽本線で、寝台特急を牽引していた時代は13年でしたのでその後1978年から貨物機として働いていた期間の方が遥かに長い結果になります。その間、特急色が守り通されたのも奇跡に近いものがあります。第一の危機は、特急牽引から格下げされた時点で直流機の一般機と同様にされる危険。これは実際には42輌全機に対し実施されることはありませんでした。AREB対応の識別の意味もあったのでしょうね。第二の危機は国鉄民営化後、特にJR貨物の所有機となった号機に対するJR貨物標準塗装への変更。これは、実際の何両かの500番台に対し実施されてしまったようです。そんな危機もかいくぐりしかも、廃車になることもなく生き延びた4輌のPは幸運の持ち主だったのでしょう。

4輌機関区に並んだPを見て、思い出さずにはいられない写真がありました。昭和50年代の雑誌にしばしば登場した写真…向かって左から、「さくら」「はやぶさ」「みずほ」「富士」「出雲」「あさかぜ」「あさかぜ」「瀬戸」(東京発車の順です)のヘッドマークを付けた8輌のPが東京機関区にずら〜と並ぶ写真。夕暮れの写真で、全機ヘッドライトも点灯していた写真…。

そんなことを思いながら撮った写真の数々です。当時の姿をほとんど留めた(テールがぁ…まぁ贅沢は言えませんね)65Pは、かつての国鉄の看板列車(東京発の九州特急は、151系や新幹線にも匹敵する真の意味での国鉄の代表列車といえると思います。)の姿をほとんどそのまま伝える生き証人でしょう。

朝日を浴びて機関区に佇むPは特急を牽いて1100kmの行程を終えてきたかのようです


1976年夏、オハネフの貫通扉の窓から見たその姿が…



特急仕業の華やかな時期もその後の地味な貨物機の時期も苦楽をともにしてきた僚機とともに



小学生のころ何度も何度も描いてたので、今でも何も見ずにこの顔を描くことができます。


501号機のみJR東日本所属。Pトップの愛称で親しまれているらしいです。


栄光の特急色。この姿をいつまで見ることができるのでしょうか…

もうPでイッパイイッパイだったので他はあんまり撮ってません。

これは、EF55。あんまり興味ないなぁ。っていうか、本当に活躍した機関車を残すなら上越型のゴハチを残しておくべきだったでしょう。



国鉄の機関車はやっぱりカッコイイですね。特に特殊任務を負った機関車には機能美が滲み出ます。

これはEF641000番台です。私にとっては「新鋭機」なんですが、なんでもこれの後継機が誕生しているそうで…。こいつが上越のEF58/EF15/EF16の息の根を止めたのも今は昔ですね。

これはデビュー間もないころのEF641000。
EF16+EF15に替わりEF641000の重連で上越国境を越え新潟県側に入った貨物です。

展示機は上越国境越えの仕業直後と思われ床下には雪が付いてました。やっぱり生きている電機は最高ですね!


ロクヨンのセン…氏のお気に入りだそうで…

あとは、知らない機関車(子供たちに大人気の最新鋭機)と、茶色の65と茶色の641000、それと変な色の60そしてフツーの65とフツーのPF(北仕様)といったところでした。

休憩所代りに旧客が3輌。オハニとオハとオハフだったかな?まずオハニの台車が許せない!なんで?TR50かな?もっと新しいやつかな?どう見ても不自然だなぁ。そもそもスハ43系をTR23に換装したオハ46(7?)でさえイマイチだと思ってきたからなぁ。「オ」?「オ」じゃだめだ、「ス」だよ「ス」!戦後型切妻旧客はやっぱ鋳物製のTR47履いてなきゃ…。ぶつぶつ…。と時代錯誤な元鉄は現状を理解できず高望みばかりするのでした。

小学生のころ学校が終わると何度となく友達と東海道沿線に行き、夕方の「さくら」「はやぶさ」「みずほ」の通過までずっとそこにいました。そのときヘッドマークも誇らしげにぴかぴかの新鋭寝台客車を牽引していた機関車がほとんどその当時の姿そのままで残っていてくれたことは嬉しい限りでした。自分にとってEF65Pは断じて貨物機ではありません。特急色を纏った500番台を見るとき、それがいつどこであっても心の中には寝台特急を牽引していたあのころの姿がよみがえってきます。


1976年7月上り「はやぶさ」を牽引し横浜に到着したEF65541


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